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コダクロームで撮影した写真が見られると知って、帰省の途中で御茶ノ水のギャラリー・バウハウスへ立ち寄った。ギャラリーオーナーで、写真家の小瀧達郎さんの作品展で、ウイーンの街を撮影したシリーズである。地下へ降りて行くと小瀧さんが在廊していた。よく見ると過去のコダクロームで撮影した写真とコロナ禍前の2020年に撮影された写真が並べて展示されている。ぱっと見て、どちらがフィルムでどちらがデジタルで撮影したかはわからない。撮影年を見てようやくわかる感じである。
小瀧さんにプリントのお話を伺うと、プリントはEPSONの最新のプリンターとピクトリコの紙を使っているとのことだった。最初はプリントすると、汚れが出たりして上手くいかなかったそうだが、原因を究明して、最終的にピクトリコにプロファイルを作ってもらい解決したそうである。流石、プロフェッショナルである。コダクロームというクセのあるフィルムで撮影した写真と新しいデジタルカメラで撮影した写真がプリントされ、展示されているのに違和感がないのは、一つ一つ調子を整えてプリントして、それがさり気なく見えるからである。
小瀧さんがプロとして仕事をしてきた際に、主に使用してきたのがカラーフィルムであり、ポジフィルムだったそうだ。撮影したフィルムを主に雑誌や書籍の装丁など紙媒体のために納品してきたそうである。小瀧さんの写真を見ていると、そうした仕事の中で培われた、ある種の職人技のようなものを感じたのである。カラーフィル厶はいずれ失われていくかもしれないが、カラーフィルム時代に培われたプロの技は決して失われていないのだなと思ったのである。
小瀧達郎写真展
WIEN −旅の憂鬱−
会 期 / 2021年11月25日(木)〜2022年2月26日(土)
*2021年12月26日(日)〜2022年1月10日(月)は年末年始休廊
時 間 / 11:00〜19:00
休 廊 / 日・月・祝
入場料 / 無料
http://www.gallery-bauhaus.com/211125_kotaki.html
このブログを始めてから16年の歳月が過ぎた。
その時の流れを感じるのは、自分自身のことよりも、その間に出会った人たちの変化である。その頃、中学生だった人が結婚したり、一年後に生まれた人が中学生になり、高校受験に向けて受験勉強していたりする。二十歳の学生だった友人は30代半ばになり、二人の子持ちのお父さんだ。同級生で若くして結婚した人は子育てに夢中だったが、今では孫が生まれて、お婆ちゃんと呼ばれている。そして、最も時の流れを感じるのは、大切な人の不在である。この間、母が亡くなり、数人の友人が旅だった。そして、尊敬する写真家も。僕自身も、大病をして死に直面した。生きるのを諦めかけたが、このまま死ぬのではなく、もう一度生きたいという気持ちと家族や周りの人たちの助けを借りて生き延びたのである。ただ、亡くなった人たちと違うのは、僕自身については日々その状況がわかるのだが、亡くなった人たちは、自分の記憶や記録の中にしか存在しないことだ。そう考えると、断片的でも良いから写真を撮ったり、文章で記録することが、少しでも価値のあることに思えてきたのである。
全てを捨てて、忘れてしまうことで楽になれる人もいるかもしれないが、それでは、生きていて面白くないし、生き甲斐を感じられないから。
僕は命ある限り、記憶して記録して行くことを続けていきたいと思うのである。
先日、中学時代の友人T君と市原方面にドライブに行った際、昼食をどうするかという話になった。しかし、その辺りには気の利いた店などないので、コンビニで弁当を買って車の中で食べることにした。ようやくみつけたコンビニで弁当を買って、助手席で買ってきた弁当を広げて食べ始めた僕は運転席のT君に「何の弁当にしたの?」と聞いた。T君は「俺は弁当持ってきたから」と鞄の中から徐にハンカチに包まれた弁当箱を取り出したのである。「え?自分で作ったの?」と聞くと、T君は「いや、作ってもらったんだ。いつも昼は弁当作ってもらうんだよ」と嬉しそうに言った。
確か彼は数年前に父親を癌で亡くし、母親と二人暮らしのはずである。「へえ、そうなんだ。いいねぇ」とおいしそうに弁当を食べる彼の顔を見ながら僕は言った。普段、どちらかと言うと感情を抑えている彼がその時、とても嬉しそうに弁当を食べていたのが印象的だった。
ドライブから帰って、母親と話をしていた時、僕はT君が嬉しそうに弁当を食べていた理由が突然わかったきがした。それは、中学時代、何かの都合で給食が休みになった際、それぞれ弁当を持参して食べる機会が何度かあったのだが、T君はいつも一人だけ、弁当を持ってこなかった。みんなは、それに気づくと、「あげるよ」と少しづつおかずやおにぎりを分けてあげたものだった。T君はそれを申し訳なさそうにもらって食べていた。ある時、僕は不思議に思って、「どうして、いつも弁当を持ってこないの?」とT君に聞いたことがあった。T君は「俺の母親は本当の母親じゃないんだ」と寂しそうに言った。聞けば、T君を産んだ母親は物心つく前に亡くなって、今の母親は父親の後妻としてやってきたというのである。
そうした事情から弁当を作ってもらったり、甘えたりすることはできないというのである。それを聞いて僕は、「弁当も作ってもらえないのか…」ととても複雑な気持ちになったのだが、今思えば、T君は給食がないことがわかっても、母親に素直に弁当を作って欲しいと言えなかったのかもしれない。それが、今、40年近く経って母親に作ってもらった弁当を食べているT君の嬉しそうな顔を思い出していたら、急に目頭が熱くなったのである。
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