我が漂流記

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胸の振り子さんの写真と幻の映画

あれは二月程前のことだった。 いつものようにSNSをチェックしていると、ある写真仲間が亡くなったことを知らせる記事が投稿されていた。その投稿は交通事故について書かれた地方紙を引用していて、午前5時過ぎに交差点で友人が運転する軽自動車がトラックと衝突して友人が亡くなったことが最低限の客観的事実として綴られていた。 何度もそこに書かれている名前を読み返してみたが、やはり亡くなったのはその人に間違いないようだった。その日は僕も早朝から仕事で出かけていたのだが、その時間はまだ暗く、自分の吐く息が白くなる程とても寒かったことを覚えている。 それにしても、つい一日か二日前にはTwitterの彼の投稿を見ていたし、こちらの投稿にも反応してくれていた人が既にこの世の人ではなくなっていることに驚きを隠せなかった。数ヶ月前、京橋で開かれていた田中長徳氏の写真展に行ったところ、偶然、そこで会ったのが最後になってしまった。 彼はTwitterで胸の振り子というハンドルネームで投稿していた。名前の由来は心臓専門の医師であるからだと聞いた。身体は大きいが繊細でいつも穏やかに話す紳士的な人だった。年齢は僕よりも10才は上だったが、カメラ好きで、写真用のカメラだけでなく、ムービーのカメラも所有していたので、会えばカメラの話で盛り上がったものだった。 丁度、京橋で会った時も、「アリフレックスの35mmのムービーカメラを手に入れたので、スチール用のフィルムで撮影して、自分で現像するのが楽しみだ」と言っていた。その時の振り子さんの悪戯っ子のような笑顔が忘れられない。 胸の振り子さんは、フィルムのムービーカメラだけでなく、プロが使う最新のデジタルムービーカメラで映像を撮っていた。アメリカのRED社が開発したカメラで「おわら風の盆」などの日本の伝統的な祭りを撮っていたのである。時々、SNSに投稿された動画を断片的に見ただけだったが、編集して一本の作品として見ることができなかったのが残念である。そういえば、僕にRED社の最初の4Kカメラ、REDONEを「中古で買いませんか?」と仲介してくれたのも胸の振り子さんだった。 胸の振り子さんが亡くなってから、親しくしていた友人から話を聞いて、ここ数年、勤め先が変わったりしていたことを知った。趣味の繋がりで知り合ったので、僕には自らの苦労などは口には出さなかったけれど、穏やかな笑顔の裏では苦労されていたんだなと思った。 それにしても、仕事も忙しかったはずなのだが、数年前に一緒に参加した写真展で展示していた写真も8x10の大きなカメラで、日本中のあちこちを精力的に撮影していたことが思い出される。あの時展示していた膨大な写真をもう見られないのかと思うと残念でならなかった。 しかし、振り子さんが亡くなって遺品の整理をすると聞いて、写真仲間が振り子さんの写真をもう一度展示してはどうかと企画を立ち上げた。遺族から写真やフィルムを預かってスキャンをしているという。近いうちに展示が実現することになりそうだ。 写真仲間から胸の振り子さんの回顧展の企画の話を聞いてまもなく、僕は夢を見た。胸の振り子さんが住んでいた大きな家に招待され、胸の振り子さんがこれまで4Kで撮影してきた自主制作の映画が完成したのでその試写をするというのである。振り子さんは、にこにこしながら、完成した映画を大きなモニターで見せてくれた。僕は、その素朴な映像と斬新な編集にすっかり魅せられてしまった。それは、寺山修司のような実験的な精神に満ちていながら、何か心を打つような作品でとても感動したのである。僕は作品を観終わるや否や、振り子さんに「凄い作品ができましたね!」と思わず作者である振り子さんに握手を求めたのだが、振り子さんは、少し照れたように静かに笑っているのだった。夢から目覚めた後でもとてもリアルだったので僕はただの夢とは思えなかった。
もう胸の振り子さんには会うことはできないと思うととても淋しい。しかし、胸の振り子さんが撮影した写真と再会できる日が近いと思うととても楽しみでもある。胸の振り子さんが見ていたものは何だったのか?もう一度、彼の写真を見て確かめたいと思っている。 そして、最近、めっきり持ち出すことのなくなった古ぼけたフィルムカメラを久しぶりに箱から出していつも使っている鞄の中に忍ばせた。
| 写真 | 18:08 | - | - |
さらば2B

先日、取り壊しになる前の2Bを映像に記録するために久しぶりに江古田へ行った。この街は学生時代に住んでいた30年前と全く変わっていない所もあれば、すっかり変わってしまっている所もある。 学生時代に通った喫茶店のトキはインドカレーの店になっていたけれど、近隣の書店やおしどりのような居酒屋は当時と相変わらず営業していたりする。ちょうど腹が減っていたので、学生時代に通ったランチハウスに行ってみると、マスターと女将さんがキッチンに立っていてほっとした。ボードに手書きで書かれたメニューを見ると、昔と値段が変わっていないのかランチが600円台と安くて嬉しくなる。生姜焼きランチを食べながら30年経っても変わらない場所があるのはなんて素敵なことだろうと思った。 ビルの向かいの自転車屋は定休日でシャッターが降りていた。その前に三脚を立てて、ビデオカメラを設置する。液晶画面を覗くと、あまりに見慣れた風景だが、このビルもまもなく取り壊されて跡形もなくなるのかと思うと、きちんと撮っておかなければと、何カットか長めに撮っておく。すると、約束していた時間が迫ってきたので、三脚を畳んで、そのビルへ向かった。いつものように階段を上っていくと「戻ってきた」という思いがこみ上げてきた。 2FBの表示のある扉の前に来ると、「2FAにいます ノックして下さい ワタナベ」と手書きで書かれた貼紙が一枚貼りつけられていた。 それで、暗室のある2FAの扉を叩いたのだが、反応がないので、貼紙のある扉を叩くと、「入っていいよ」と中から聞き覚えのある声がした。 扉を開けると、スーツ姿の男性と師匠が向き合って座っていた。 そういえば、2Bの引越しの見積もりをしに業者との打ち合わせがあると師匠が言っていたのを思い出した。隣の部屋で三脚を立てて、準備をしていると、打ち合わせが終わったのか、スーツの人は出て行った。渡部師匠からは「邪魔なものがあったら片づけて撮っていいよ」と言われたのだが、いざ撮ろうとするとどう撮ったら良いのかわからない。 結局、ぎっしりと写真集が並んだ本棚から撮ることにした。 渡部さんに「写真集何冊ぐらいあるんですか?」などと聞きながら、 インタビューを始めた。 渡部さんは、これらの写真集を引越しの際に重要なもの以外は、処分すると言った。 「全部持って行ってもしょうがないからね。青空市でもして欲しい人にあげちゃうかな」とあっさりと言う。これだけの数の写真集を20年以上かけて集めたコレクションをそんなに簡単に処分できるなんて信じられなかった。それで、「思い入れはないんですか?」と何度も訊いていたら、「それは誘導尋問だよ!」と言われてしまった。渡部師匠の著書「旅するカメラ」を読んでいて、物への拘りが強いのでは?と思わせる一方で、あっさりと本にも登場していたカメラを人にあげてしまっていたり、売ってしまったりしていることを後から知って驚かせられたのも、また師匠なのである。そんなやり取りをした後、渡部師匠は、写真展で注文のあったプリントをしに隣の暗室へ入って行った。 僕は、ひとりで2Bの中を本棚や部屋に掛かった時計やカメラなど取り留めもなく撮っていった。 途中で暗室から休憩で戻ってきた渡部さんがコーヒーを淹れるのを飽きもせず撮った。渡部さんは何回、こうしてここでコーヒーを淹れたり、お茶を淹れたりしたのだろうと撮りながら思った。そして、渡部さんに暗室も撮らせてもらいたいとお願いした。久しぶりに暗室に入った。すると、薬品の匂いが鼻をついた。しかし、嫌な匂いではなかった。むしろ、懐かしい匂いだった。 渡部さんもプリントを水洗したり、洗濯バサミで乾かしたりしながら、 「ここの方が2Bより暖かいんだよ」と言った。長年 、作業してきた暗室だから、きっと愛着はとても強いに違いない。しかし、もう間もなくこの場所を離れなくてはならないのだ。指定席に座って渡部さんはプリントをするからと言ったので僕は2Bに戻った。 炬燵のあるがらんとした部屋で、僕はただカメラを回した。プリントを終えて暗室から戻ってきた渡部さんにインタビューをしているうちに最後は、バッテリーが残り少なくなって警告画面が出てきた。まだ何も撮れていない気がしたが、キリがないので、これで撮影を終えることにした。渡部さんに挨拶をして階段を降りると、この階段を撮っておこうと思った。撮っていたら、またバッテリー切れの警告画面が出たので、撮り直したかったが諦めた。もうこれが最後なのかと思うと急に切なくなった。
| 江古田 | 22:47 | - | - |
2Bとマンデリンと師匠

ここ数年、年が明けると、中野のギャラリー冬青で渡部さとる師匠の写真展を観に行くのが恒例になっている。今回の写真展のタイトルは「2Bとマンデリン?そして僕はこの町を離れる」だった。 これまでは横文字のタイトルで、読んだだけではよくわからないものが多かったのだが、今回は、渡部師匠のワークショップの本拠地であり、事務所として長年使用してきた2Bと江古田の街の写真であることがわかるものだった。マンデリンというのは何だろうと思ったのだが、渡部師匠が学生時代から通っている江古田にある喫茶店のコーヒー豆の種類のことだそうである。 そして、サブタイトルに「そして僕はこの街を離れる」とある通り、 2Bはビルの建て替えによって取り壊され、渡部師匠はワークショップとともに立ち退きを迫られることになったのである。 そうした経緯を知ると、矢も盾もたまらず、写真展の初日に行くことにした。 久しぶりに中野に出たので中古カメラ店を覗いて、腹拵えをしてからギャラリーに向かって歩き出すと、不意に駅前でコートを着たサラリーマンに声をかけられた。振り向くと、ワークショップで知り合った友人だった。 彼もこれからギャラリーに行くところだと言う。 駅からの長い道程を一人で歩くよりも、カメラの話をしながら歩く方が楽しいし、疲れない。 ギャラリーに着くと、渡部師匠がご夫妻で在廊していたので、写真を観ながら、江古田の街の話をしているうちに、「あゝ、あそこもここも、もうないんだな」と実感した。 2Bの入っているビルを撮った写真を見ていたら、 渡部さとる師匠に「何年、あそこにいたの?」 と聞かれて、「2年です」と答えたら、 「そうなの?たった2年?」と驚いていた。僕自身は学生時代とワークショップの縁で再び江古田に住んだ2年間を合わせてもほんの数年しか住んでいないのだが、渡部さとる師匠は上京してから約40年間、江古田周辺に居たのだから、そこを離れることはわかっていても、実際に離れてしまうことをまだ実感できていないのではないか?と思った。 江古田の写真を見ているうちに、久しぶりに江古田の街を歩きたくなった。 1月も終わる頃、そろそろ会期も終わるので再び、ギャラリー冬青を訪れた。ギャラリーの周りには数日前に降った雪がまだ相当残っていて、駐車場で大きなスコップで雪掻きをしている人を見かけた。ギャラリーに展示されている写真をあらためて見ていくと、すでに取り壊されて、今は存在しない「銭湯の壁」の写真が何点も売れていたのに気がついた。普通の人が見たら、ただの壁にしか見えない写真である。しかし、その「ただの壁」はワークショップ2Bを受講した人なら誰でも記憶に残っている特別な壁であることを僕は知っていた。 渡部さんに「この壁の写真買ったのって、2Bの人ですよね」と言うと「そりゃ、そうだよね」と渡部さんは笑った。ワークショップで、その銭湯の壁を使って僕たちは、写真を撮る際の光の見方を学んだからである。僕が学生時代に住んでいた頃はまだ本来の銭湯の壁として存在していたその壁は、僕がワークショップを受けた時には、駐車場の壁となっていた。ワークショップで江古田の街を撮り歩きながら、その駐車場にやって来ると、渡部さんは、僕らにその壁を指差した。その壁に差し込んだ光は柔らかく、その前に人を立たせて撮るとまるでスタジオのように撮れるので、渡部さんは、そこで僕らに「感度分の16」というやり方で写真を撮る際の光の見方を教えてくれたものである。 しかし、その壁は今、取り壊されて、すでにない。だから、その壁の写真を見ると特別なものとして僕らには見えるのだ。 僕は、渡部さんに取り壊される前の2Bを映像の記録として、あらためて撮影させてもらいたいと申し出たのである。
| 写真 | 17:48 | - | - |
年賀状と手袋

最近は年賀状もあまり届かなくなった。何年も前から自分から出すのをやめていたからだが、それでも届いたものには返信を出していた。中でも、小学校時代の恩師から毎年届く年賀状には自筆の絵が印刷されていて、絵を描くのが好きだった恩師の人柄が出ていて届くのを楽しみにしていたのである。 ところが、今年は珍しく、恩師からの年賀状が届かなかった。七年前に懐かしくなって、どうしても会いたくなり、教師になっていた同級生に連絡をとり、恩師の連絡先を教えてもらって会いに行って以来、ずっと年賀状だけはやりとりしていたのでのである。恩師は小学校教師を定年退職後、高齢者向けの陶芸教室の講師を週に何日か勤めていると言っていたが、独身で一軒家に一人暮らしをしていた。 あれから七年経っているのだから、もう70歳近くになっているはずである。毎年、自筆の絵を描いて年賀状を作っていた人から年賀状が来なかったことを考えると、恩師の身に何かあったのでは?と考えるのは至極当然のように思われた。 その日はとても風の強い日だった。冷たい木枯らしが容赦なく吹き抜けていた。しかし、図書館から借りていた本の返却期限の日だったので、僕は自転車で図書館へ向かった。 かじかむ手でハンドルを握りながら、自転車で来てしまったことを後悔した。 そして、図書館で本を返した後、帰途に着く途中で恩師の家の近くを通りかかったのである。 僕は自然とハンドルを切っていた。恩師の家のある場所を記憶を頼りにペダルを漕いだ。 『あった!』 一戸建てが並ぶ住宅街に恩師の名前が記された表札が出ていた。 恩師はまだこの家にいるかもしれない。駐車場には車があった。 そして、部屋には電気が灯っていた。 表札はそのままだったので、このまま帰ろうかとも思ったのだが、 安否確認のつもりで、ベルのボタンを押してみた。まもなく、ドアが開いて、中から白髪の老人が現れた。 よく見ると、紛れもなく恩師だった。僕は年賀状が届かなかったのでと訪ねて来た事情を話した。 最初は怪訝そうにしていた恩師が、僕が教え子だとわかると、『何もないけど、上がっていきなさい』と言って家に招き入れてくれた。 元気そうで良かったという安堵の思いが込み上げてきて、何も持たずに来たことも忘れて、誘われるままに家に上がり込んでいた。 恩師は、親戚の結婚祝いの集まりがあったので前橋の実家に帰っていて先ほど帰宅したばかりだと言った。だから、何もないんだけどと、冷蔵庫から冷えた缶ビールと柿の種とチーズを出してきて炬燵に入って脚を崩すように言った。『君のところには年賀状は出したはずだよ。コンピュータに宛先を入れてあるからね。とにかく、来てくれて嬉しいよ』恩師はそう言って乾杯すると、ビールを美味そうに飲んだ。 そして、今はこうしてビールを飲めるようになったが、数年前に人間ドックで癌が見つかり、胃を全摘してしまったこと、体重が10kg減ったこと。食事をしても消化しきれなくなったので、一回の食事量を減らして食事の回数を1日6食に増やしたことなど、食事の苦労を話してくれた。そして、最近ではこうしてビールを飲むことができるようになったのだと言った。その話を聞いて、やっぱり直接尋ねて良かったと思った。 恩師はビールを飲んで上機嫌で話をしているうちに、僕が知らない恩師の学生時代の話をしてくれた。手塚治虫が大好きで前橋の高校生だった頃、西武線の富士見台駅沿線にある虫プロまで押しかけたこと。同じく富士見台に住んでいたちばてつやの家も訪ねたこと。そして、美大を受けて浪人中に親に内緒でアニメの専門学校に入ったり、大学に入ってから仲間と共同で青年誌の漫画を連載したり、学生時代、缶詰工場でのアルバイトのエピソードなど、話を聞いているうちに、あっという間に時間が経っていた。思い返せば、恩師が担任だった小学校の学級文庫には手塚治虫の「火の鳥」とか「ブッダ」などの漫画が並んでいたし、絵を描く授業で点描画の技法を僕に教えてくれた恩師の人柄がどのように出来上がっていったのかが話を聞いてよくわかった。 そして、何よりその語り口が小学校の授業の時と全く変わらなかったのである。 よく恩師は、授業中に怖い話をしてくれたのだが、普段は落ち着きのない子供たちが、恩師が話し始めると皆、固唾を呑んで聞き入っていたものである。 あの語りを再び耳にすることが出来たのが何よりも嬉しかった。その時、僕は50歳のくたびれた男ではなく、目を輝かせる10歳の少年として確かにそこにいたのである。 確か、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の話を恩師から聞いて、そのあと、主人公が地獄に落ちる場面を絵で表現するという授業を受けた記憶があると僕が言うと、『あれは、公開でやった授業で外部から人が観に来たんだよね』と嬉しそうに言った。 僕は唐突に『先生、一枚写真、撮っていいですか?』と言った。 すると、恩師は『いや、俺は写真に撮られるのはあんまり好きじゃないんだけど、まぁ、いいよ』と言った。僕はスマホを構えてシャッターを切った。スマホのモニターで確認すると、恩師のはにかんだような笑顔が写っていた。 数時間は経っただろうか。 缶ビールを飲み干して、つまみの柿の種とチーズもなくなっていた。 僕は帰ることにした。 恩師は『いつでも、来なさい。その代わり、必ず電話をしてから来るんだぞ』と言った。『突然、お邪魔してすみませんでした。今度は電話をしてから来ます』そして、僕が玄関で靴を履こうとしていると、恩師は『自転車で帰るんなら、その格好じゃ寒いだろ。ちょっと待ちなさい』と言って、どこかから、手袋を出してきて、 『これを持っていきなさい。高いものじゃないから、そのまま捨てても構わないから』と言って、有無を言わせず、手渡したのである。 その夜、僕は木枯らしの吹く夜道を自転車で帰ったのだが、手袋を着けていたせいか思いのほか暖かく感じたのであった。
| 季節 | 00:42 | - | - |
練馬区旭ヶ丘
久しぶりにカメラ雑誌「日本カメラ」を買った。別に新しいカメラに興味がある訳ではない。写真家の田中長徳さんが新たに連載を始めたからである。先日、御茶ノ水のギャラリー、バウハウスで開催中の長徳さんの写真展に行った際に、長徳さんご本人から、「今度、日本カメラで、東京の写真の連載が始まるんです」と伺っていたので、早速、注文したのである。連載は東京オリンピックが開催された1960年代の東京の写真と2回目の東京オリンピックが開かれる2020年までの東京の写真と文章で構成されるそうなのだが、その連載の第一回のタイトルが「練馬区旭ヶ丘」なのであった。僕自身、学生時代を含めて何年か住んでいた場所なので、思わず写真を食い入るように見たのだが、流石に1966年当時の写真から場所を特定することは出来なかったが、長徳さんの文章を読みながら、また江古田駅の周辺を歩いてみたくなったのである。
| 写真 | 23:48 | - | - |
日本的なるものを超えて
新年を迎えて久しぶりにブログを更新してみる。最近は専らSNSに投稿していたので、更新の手間がかかるブログは書いていなかったのだが、今、日本で起こっているあれこれを見ているうちにここに思うことを記録して置こうと思ったのである。今年は明治150年とかで、戦前の体制に帰ることを掲げる考えが政権を担う人々を中心に盛り上がっているようだが、その波に国民が流されることがないようにと強く願う。そのためには、自ら違和感を感じたことを言葉にしていくことが大切だと思う。憲法改正をして彼らは一体何をしようとしているのか?自ら考えて調べることの大切さ。周囲の人間に流されて、同調するだけでは決して目的地には辿りつけないのである。むしろ、人の波について行ったら、その先には破滅が待っているかもしれないのである。ワイドショーを騒がせている相撲界の問題や、神社の宮司刺殺事件を見ても、日本的なるものの負の側面が形を現わしているような気がしてならない。自分の人生を運のせいにして生きることをやめること。人の流れに逆らって自分の足で一歩でも前に進むことを大切にして、この一年を始めたい。
| 人生 | 20:04 | - | - |
T君の弁当

 先日、中学時代の友人T君と市原方面にドライブに行った際、昼食をどうするかという話になった。しかし、その辺りには気の利いた店などないので、コンビニで弁当を買って車の中で食べることにした。ようやくみつけたコンビニで弁当を買って、助手席で買ってきた弁当を広げて食べ始めた僕は運転席のT君に「何の弁当にしたの?」と聞いた。T君は「俺は弁当持ってきたから」と鞄の中から徐にハンカチに包まれた弁当箱を取り出したのである。「え?自分で作ったの?」と聞くと、T君は「いや、作ってもらったんだ。いつも昼は弁当作ってもらうんだよ」と嬉しそうに言った。
 確か彼は数年前に父親を癌で亡くし、母親と二人暮らしのはずである。「へえ、そうなんだ。いいねぇ」とおいしそうに弁当を食べる彼の顔を見ながら僕は言った。普段、どちらかと言うと感情を抑えている彼がその時、とても嬉しそうに弁当を食べていたのが印象的だった。

ドライブから帰って、母親と話をしていた時、僕はT君が嬉しそうに弁当を食べていた理由が突然わかったきがした。それは、中学時代、何かの都合で給食が休みになった際、それぞれ弁当を持参して食べる機会が何度かあったのだが、T君はいつも一人だけ、弁当を持ってこなかった。みんなは、それに気づくと、「あげるよ」と少しづつおかずやおにぎりを分けてあげたものだった。T君はそれを申し訳なさそうにもらって食べていた。ある時、僕は不思議に思って、「どうして、いつも弁当を持ってこないの?」とT君に聞いたことがあった。T君は「俺の母親は本当の母親じゃないんだ」と寂しそうに言った。聞けば、T君を産んだ母親は物心つく前に亡くなって、今の母親は父親の後妻としてやってきたというのである。
そうした事情から弁当を作ってもらったり、甘えたりすることはできないというのである。それを聞いて僕は、「弁当も作ってもらえないのか…」ととても複雑な気持ちになったのだが、今思えば、T君は給食がないことがわかっても、母親に素直に弁当を作って欲しいと言えなかったのかもしれない。それが、今、40年近く経って母親に作ってもらった弁当を食べているT君の嬉しそうな顔を思い出していたら、急に目頭が熱くなったのである。

JUGEMテーマ:日記・一般

| | 23:42 | - | - |
走馬灯のような写真集を見る

昨日は、渡部さとる写真展『demain 2017』を観に中野のギャラリー冬青へ行った。今週末で会期が終わるので、滑り込んだのである。写真はこれまでに観たり、所有している写真も一部あったのだが、渡部さんがプロになってからの写真と学生時代の写真が混じっていて面白い。学生時代の写真を撮り始めた頃の写真は作為がなく素直なところがとても良いのである。今回の写真展に合わせて出版された写真集を見せてもらった。すると、見たことのない古い写真や子供の頃のアルバムの写真も入っていて興味深く、何度もページをめくって眺めた。渡部さんに写真集の見慣れない古い写真について訊ねると、旅先の屋久島で見せてもらったアルバムの写真を何点か入れているとのことだった。渡部さんが撮った写真と全く違う写真だが、渡部さんが見てきた記憶をまとめたもの、あるいは、渡部さんが鞄の中に大事に持っていた所持品の写真を取り出して並べたものだと思うととてもしっくりきたのである。渡部さんの人生を写真で綴る記録として読むとなんだかスッと入ってくる内容だった。渡部さんに写真集のコンセプトを訊ねると、走馬灯という言葉が出てきた。死ぬ間際に頭の中に記憶が映像として次々によみがえってくるというあれである。 渡部さんが最近興味を持っていること、現代美術、キリスト教、仏教、日本人の精神性などについて話をする。渡部さんが構想している本の話も面白かった。僕もただ生きるのではなく、もっと自由に生きようと思ったのであった。
| 写真 | 09:46 | - | - |
映画『沈黙ーサイレンスー』を観て日本で生きていくことについて考えた。

JUGEMテーマ:映画

 映画『沈黙ーサイレンスー』を観た。登場人物や時代背景など、自分とはかけ離れた遠い昔の話だと思って見ていたら、すごく身近に感じる話で驚いた。
特に長崎の奉行や役人、通訳の日本人の話している内容が、現代の日本の警察や検察といった役人のセリフに聞こえてくるのである。マーティン・スコセッシ監督が28年間も温めて映画化した価値がわかるのと同時に、監督に日本人の本質を見透かされているような気がしたのである。僕は遠藤周作の原作を読まずに映画を見たので、まるで自分が体験したことのように感じたのかもしれない。主人公の生き方を通して、日本で生きていくということを考えさせられた映画だった。戦前の日本に回帰させようという流れの中で、もっと古い時代から日本で行われてきた支配の構造を垣間見た思いである。この映画を見て、政府が共謀罪を導入しようとする今、思想や信仰の自由というものが実は当たり前のことではないということを実感したのである。原作も読んでみよう。

 

| 映画 | 22:41 | - | - |
iPad再生計画

 思えば僕がiPadを買ってから既に4年以上が経っていた。買った当初は物珍しさもあって、いつも鞄に入れて持ち歩いていたものの、そのうちに、持ち歩くこともなくなり、代わりに薄型のノートパソコンを買ってからは、めったに外へ持っていくことはなくなった。毎日使っているiphoneでは片手で簡単に文字入力できるようにはなっても、iPadは文字を入力するには大きすぎてiPhoneのように使いこなすには程遠かったのである。僕にとってiPadの難点は、キーボードがないことだった。インターネットの検索だけでなく、文章を書くには、画面上に現れるキービードでは物足りなかったのである。それで、iPad用にサードパーティ製のBluetooth接続のキーボードを買ったりしたのだが、iPad以上に嵩張るもので、結局、iPad自体を持ち歩くのを止めてしまったのである。

 しかし、最近、Amazonのセールで見つけたBluetooth接続のキーボードは僕の持っている4年落ちのiPad(第3世代)にもぴったりのサイズで、おまけに使わない時はiPadカバーとして使えるというものだった。価格もリーズナブルである。新たにノートパソコンを買ったり、iPad miniを買うよりも圧倒的に安いのである。僕は迷わず注文した。

届いたキーボードをiPadに装着してみると、まるで純正品のようにぴったりだった。

 こうして僕のiPadは新たなキーボードという伴侶を得て、5年目にしてようやく僕のお気に入りの相棒として再生したのである。

 

| 道具 | 15:37 | - | - |
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