記憶 | 我が漂流記

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地下鉄サリンの日

今日、打合せに行く途中、地下鉄の駅に撮影クルーがいて、駅員さんが物々しい様子で立っていた。「何かあったの?」と一瞬思ったのだが、先を急いでいたので、階段を登っているうちに、不意に「あっ」と声を出してしまった。前に見た映像にそっくりだと気づいたのだ。あれは20年前の地下鉄サリン事件のニュース映像だった。合掌。
JUGEMテーマ:日記・一般
| 記憶 | 22:41 | - | - |
風速40m
 荒れ狂う暴風雨の中で、二十数年前の出来事を思い出した。僕がある民放のバラエティ番組の駆け出しのADをしていた時のことである。ある時、番組のテーマが「お天気」であったため、台風の風速何十mの世界とはどんなものかを再現するという企画があった。都内の学校のグランドを休日に借り切って、映画会社の特機チームをお願いして、雨を降らせたり、巨大な扇風機を使って暴風雨を人工的に起こすのである。エキストラをお願いして、風を強めながら映像に収めて行くのだが、肝心の最大風速40mの暴風雨の際には、駆け出しのADである僕が成人式の際に誂えた一張羅のスーツを着て、左手にアタッシェケースを持ち、右手には蝙蝠傘の出で立ちで登場するのである。設定は通勤途中のサラリーマンである。ディレクターの掛け声とともに、激しい雨が降り、僕が傘をさして前へ歩こうとすると、巨大扇風機の強風が吹き、あっという間に傘はおちょこになり、持っていたアタッシェケースも風で後ろへ引っ張られてしまい、何とか踏ん張ろうとするのだが、身体は弓なりに仰け反って、ついには泥だらけの水たまりに倒れてしまうのである。もちろん、一発OKである。決して、演技が上手かったわけではなく、風速40メートル近い風を受けながら息もできずに、とにかく必死に抵抗していただけであったが、返ってそれが真に迫っていたようである。放送を見ると、自分の出ているところは、あっという間に終わってしまう程、ほんのわずかの時間であったが、今思えば、番組づくりの苦労の一端を知る良い経験であった。

| 記憶 | 18:58 | - | - |
プールの中の記憶

 プールの中は静かで孤独な場所である。音も聞こえないし、周りを水が覆っていて体も自由に動かせない。

 僕のプールの中の記憶は小学生時代に遡る。僕は泳ぎが不得手であった。水に対する恐怖心が強く、運動神経も良い方ではなかったので、泳げるようになるまでに随分と時間がかかった。学校で習うだけでは泳げるようにはならなかったので、スイミングスクールに毎週通った末にようやく25mを泳げるようになったのである。

 中学に入ると毎年、夏が来るのが嫌だった。それは、クラス対抗の水泳大会があるからだ。一応、泳げるようになったものの、水泳大会では泳ぎの速い者でないと勝負にならない。「参加することに意義がある」という考えもあるかも知れないが、中学生の僕にとっては、いつも結果がビリであれば、クラスの他のメンバーにも迷惑をかけるし、参加しても自分の惨めさを思い知る場でしかなかったのである。しかし、水泳大会は全員参加の建前があったので、結局、僕はプールの底に置かれた石を拾う競技に参加した。僕は、合図を聞いてプールの底めがけて潜った。慌てれば慌てる程、体が言う事を聞かない。やっとのことで石を拾った瞬間、誰かの足が顔面に直撃した。僕は、ためていた息を一気に吐き出してしまい、苦しさで水面に顔を出した。勝負がどうであったかは覚えていないが、その時の水の中のパントマイムのような映像が今でも記憶に残っている。
(写真は、金沢21世紀美術館「レアンドロのプール」にて撮影)
JUGEMテーマ:写真
| 記憶 | 23:11 | comments(0) | - |
神保町の赤電話と矢口書店
 昨日の午後、久しぶりに神保町へ行った。神保町へは学生時代、よく本を探しに行ったものだが、最近はめっきり足が遠のいてしまっていた。それというのも、欲しい本は、大概、インターネット通販で探し、買うことができるようになったからだ。
赤電話
 久しぶりの神保町で、昔懐かしいものを発見した。赤電話である。最近では、携帯電話の普及で公衆電話さえ、あまり見かけなくなってしまったが、たまに駅などで見かける公衆電話は緑やグレーのプッシュ式の電話ばかりである。しかし、僕の子供の頃の記憶では、公衆電話と言えば、たばこ屋の店先などに置いてあるダイヤル式の赤電話であった。
矢口書店
神保町では、もう一つ、懐かしいものを発見した。それは、映画やドラマのシナリオや、戯曲専門の古書店、矢口書店である。ここは、学生時代に初めて行った20年前と少しも変わらない佇まいだった。店に入ると、本棚の一角に月刊シナリオのバックナンバーがずらりと並んでいた。その中に日に焼けてしまった背表紙の一冊を見つけて、購入した。1983年の7月号。神代辰己監督萩原健一主演の「もどり川」のワンシーンが表紙に使われていた。脚本は荒井晴彦である。当たり前の話だが、シナリオのスタイルというものは、何十年前のものも最近書かれたものでも変わらない。時代や個人でスタイルが変わってしまっては、スタッフや俳優さんなど映画制作の全ての関係者の共通言語として役に立たないからであろう。
 古いシナリオを手に入れて、すっかり学生時代に戻ったような気分になっていた僕は、神保町から家まで歩いて帰ったのであった。
| 記憶 | 22:46 | comments(3) | - |
朝青龍の帰国で伝説の力士を思い出す
伝説の力士
 横綱、朝青龍のモンゴルへの帰国が繰り返しテレビで報じられている。僕はその映像をぼんやりと眺めながら、一年前にモンゴルの大地を四輪駆動車に揺られながら旅していたことを思い出した。そして、ふいに古老から聞いた古くから伝わる伝説の力士の物語を思い出したのである。その力士の名は確か、ホルハルツァックと言った。主のためにナーダムで戦い、優勝したにも関わらず、約束された主の娘との結婚も褒美も反故にされた力士の物語。その力士の姿が地元の民によって岩に描かれていた。伝説の力士、ホルハルツァックは、結局、恨みの言葉を残して、その地を去ったという。最後に「300年後に帰って来る」と言い残して…僕は、目の前に遥かに広がる荒野を思い浮かべた。そして、果たして、朝青龍は、日本へ横綱として戻って来るのだろうかと考えた。もし、戻って来るならば、一層、強くなって帰って来て欲しいものである。モンゴルの地で聞いた伝説の力士のように。

個展開催まであと26日!


漂流者写真展 我が漂流記 2006〜2007 〜あなたは目撃者になる〜

開催期間 2007年9月25日(火)〜30日(日) 
     11:00〜19:00(最終日は17:00まで)
場所   ギャラリー・ルデコ(6階)TEL 03-5485-5188
http://home.att.ne.jp/gamma/ledeco/
〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3−16−3ルデコビル
| 記憶 | 23:59 | comments(0) | - |
高校の同窓会へ行く
母校の高校
 今日は、20数年ぶりに高校の同窓会があるというので、地元の千葉に帰り、久しぶりに母校を訪れた。僕が新設高校の一期生として入学した当時は新築だった校舎は、20年以上の時を経て、塗装もされずにすっかり古びてしまっていて、もの悲しかった。普通高校としてスタートした母校は、少子化の影響からか、去年の春から通信制の高校として再スタートを切ったばかりだという。同窓会の会場は、僕らが通ったころは更衣室だったが、現在は、通信制になる際にリフォームされていて、ちょっとしたパーティや催しものができるスペースになっていた。今回、集まったのは、一期生のみであるが、当時、500名以上いたうちの80名近くが顔を揃えた。時々、会っていた友人の顔もあったが、20年以上会っていなかった友人がほとんどであったので、その変化が面白かった。年を重ねてすっかり貫禄がついた人もいれば、若いときの面影のままの人もいる。女性は、子連れで参加している人も多く、母親としての顔を見ると、何とも幸せそうでこちらまで嬉しくなってきた。数名であったが、当時の先生も招かれていてお会いすることができた。それぞれ、年を重ねていたが、あいさつをすると当時のままの話方なので、時間が高校時代に戻ったような錯覚に陥り、嬉しくなった。当時、柔道部の顧問をしていた体育の先生が現在の母校の校長になっていて驚いたが、会場でジャージ姿でうろうろしていた学校関係者と思しき人に声をかけられたので誰かと思ったら、一年後輩の男で、今は母校の教師になっているというのには驚いた。今回、20数年ぶりに初めて開かれた同窓会は、普通高校から通信制高校になったことでそれを寂しく思った同期の有志が企画したそうだが、今回参加できなかった友人も含めてまた、ここで再会できたら良いと思った。あっという間に予定の2時間が過ぎてしまった。体育館に移動して、集合写真を撮って解散する。
教室の外
帰り際に3年生の時に通った教室を覗いてみた。
教室の中
しかし、教室は鍵がかけられ、物置になっていた。通信制になった今、一部の教室以外、必要がなくなってしまったのだろうが、流石に寂しい気持ちになった。
 僕は今度はいつここに来るのだろうかと思いながら、すっかり古びてしまった母校を後にしたのであった。
 本日の歩数、13980歩。
| 記憶 | 23:59 | comments(0) | - |
アメリカからのクリスマスカード
クリスマスカード
 アメリカにいる友人からクリスマスカードが届いた。
友人のMとは僕が二十歳の頃、夏の間だけ滞在したアメリカの大学で知り合った。僕が帰国する一日前のことだった。Mとはお互いの連絡先だけ交換してそのまま別れたのだが、数ヶ月後、アメリカの大学を卒業して帰国したMから連絡があり、日本で再会したのは、木枯らしの吹く今頃の季節ではなかったかと記憶している。それから数年は時々連絡を取り合って会っていたのだが、お互いに仕事も忙しく、Mが結婚したこともあって、長い間、音信不通になっていた。それが、去年、部屋の片づけをしていて偶然、Mの結婚式の招待状を見つけたのだ。日付を見ると、10年の月日が経っていた。僕は、しばらく迷ったあげく、その招待状に記載されていた住所にはがきを出してみた。すると、はがきを出して十日程経った頃だったろうか、一本の電話がかかってきた。Mからだった。Mは現在、シカゴに住んでいるという。たまたま、帰国していて横浜にある自宅のマンションに帰ったところ、僕からのはがきが届いていたので、懐かしくて電話をしてきたのだという。今は日本の有名なメーカーのシカゴの支社で働いていて、本社で仕事があるので、一時、帰国しているのだと言った。シカゴには奥さんと子供がいるのだという。Mは忙しい時間を割いて会う機会を作ってくれた。Mは、少し老けて見えた。歳月の長さを感じたが、話してみるとすぐに昔と同じように打ち解けた。Mは初め食品の卸問屋の会社すに秘書という肩書きで就職したが、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で有名な車のデロリアンを買ったりして、派手な生活を送っていた。投資だと言って、ハワイにコンドミニアムを買ったりしていた。ちょうどバブルと言われた時代だった。その後、DPEの店の店長をしていたのは知っていたが、一時期、カメラマンとして生計を立てていたと聞いて驚いた。カメラとレンズは全てコンタックスの一眼レフで揃えていたという。しかし、仕事も変わり、今は、コンパクトデジタルカメラ一台しかカメラは持っていないそうだ。もちろん、夢の車、デロリアンもハワイのコンドミニアムも手放してもう持っていなかった。僕は話を聞きながら、十年という時間の長さを思った。僕は、別れ際に、「来年、シカゴに遊びに行くつもりだ」と言うと、Mは「是非、来てくれよ。案内するから」と言って再会を誓った。
しかし、今年、僕はシカゴには行かなかった。Mからのクリスマスカードにはそんなことには一言も触れずに、ただ一言「良いお年をお迎え下さい」と手書きで書いてあった。僕は、来年は仕事はどうなるか全くわからないが、どうしても、シカゴ行きのチケットを手に入れようと思うのだった。
| 記憶 | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
いじめ自殺問題でK君のことを思い出す
 マスコミでいじめ自殺問題が大きく取り上げられている。自殺予告まで出てきてますます問題が大きくなっている。いじめ自殺について考えた時、僕はK君のことを思い出した。
K君は転校生だった。生まれつき身体が弱かったのか、いつも大人しくて大きな声を出すところなど見たこともなかった。僕らは小学校5年生か6年生だった。授業中に先生に当てられても小さな声でやっと答えるK君の姿が今でもありありと覚えている。体育の授業で走っていてもいつもビリ。僕自身も小学4年生の時に転校して来たこと、動作がゆっくりで勉強も運動も苦手で走ってもK君とビリを競っていたこともあり、自ずと仲良くなった。しかし、K君は次第に、いじめの対象になっていった。クラスメイトが数人でK君の嫌がることをして「やめてよ」とかぼそい声で言うのを面白がった。ある時、先生のいない教室でK君がいつものメンバーとじゃれあっていた。少なくとも僕にはそう見えた。しかし、次第にエスカレートしていってついには彼のズボンは剥ぎ取られ、下着までも脱がされそうになった。みんな声を出して笑っていた。K君は声にならない声を出して「やめて、やめて…」と言って必死に抵抗していた。僕は、たまらず「やめろよ!」と言って止めた。彼らは、彼の下着を少しでも脱がせたことに満足したのか、笑いながらK君から離れていった。僕はK君に「大丈夫か?」と言って近づくと、K君は「何で?どうしてこんなことするの?」と消え入るようにつぶやいた。みんな普通の子供だった。K君をいじめていた子供たちは冗談を言ったりけんかをしたり、みんな普通の子供たちだった。いわゆるガキ大将はいなかった。彼らはK君をいじめているという自覚はなかったのかも知れない。しかし、それでもまだ担任の先生はK君のことを大切に思っていたし、K君を仲間として暖かく見守っている雰囲気もクラスの中にあったように思う。K君は小学校を卒業するころには、大きな声も出せるようになったし、一緒に遊んでいても楽しそうに笑うようになった。転校してきた頃と比べると何か自信のようなものがついたようだった。来るべき中学生活への期待も抱いていたのかも知れない。卒業したばかりの春休み、K君が初めて僕を自宅に招待してくれた。行ってみると、A君が来ていた。A君も勉強も運動も苦手で言うなれば「落ちこぼれ三人組」の一人だった。僕らはその頃、一緒に良く遊んでいた。K君の家に行くと、K君のお母さんが料理を出してくれた。僕は、そのとき、その料理を初めて食べた。パリパリした麺に温かいあんかけがかかっていて、それは今まで食べたことのない旨さだった。僕は、「こんなにおいしいもの食べたことないよ」と言ってあっという間に一皿平らげた。K君のお母さんは「おかわりありますよ」と言って、皿におかわりをよそってきてくれた。K君は、僕が旨そうに食べているのを見てとてもうれしそうだった。今になって考えれば、あれは皿うどんと呼ばれているものだった。K君は自分の部屋へ僕らを招き入れた。その部屋にはロフトがあって天井には天窓があった。僕らは思わず歓声をあげた。K君はそこで、それまで見せたことのない自信に満ちた口調で「僕、ここで空を見るのが好きなんだ」と言った。それから、夜は、電気を消してロフトに寝そべって見上げると星が見えるのだという。K君は僕の知らない星座や星について語った。ちょうど理科で星や星座について習った僕は天体観測に興味を持ち始めたところだった。K君は将来、天体観測の仕事をしたいと夢を語った。僕はK君の今まで知らなかった一面に触れて、尊敬と羨望の眼差しでK君の顔を見つめたのであった。
 それから僕らは別々の中学校へ進学した。どちらも公立の中学校だったが、同じ小学校でも地域によって進む中学校が異なっていたのだ。それから3年。僕はK君とは一度も会わなかった。僕は中学に進学すると相変わらず勉強はできなかったが、スポーツは卓球部に入ってレギュラーにはなれなかったものの、充実した3年間を送った。クラスでは、勉強も運動も今ひとつであったが、いつも面白いことをするというので良く笑われたものだ。馬鹿にされることはあってもいじめられるようなこともなく、なんとか楽しく通うことができた。進学も家の近所にできた県立の新設高校に滑り込むことができた。僕は高校に入ると卓球部を作った。そこで仲良くなった友人にK君と同じ中学を卒業した男がいた。ある時、その友人が部活の練習の帰り道、ふと「K君って知ってる?」と僕に尋ねた。僕は、懐かしさもあって「K君って今どうしてる?どこの高校に進学したの?」と問い返した。すると友人は顔を曇らせながら、「K君、死んじゃったんだ」と言った。僕は一瞬耳を疑った。「え?何だって?」と問い返すと友人は「K君、死んじゃったんだよ。中学の時…」僕は、立ち止まって友人の顔を見つめた。友人は語り始めた。「あのさ、K君、いじめられてたらしいんだ。かなりひどかったらしい。それで自殺したんだ…」僕はかぶせるように「だって、同じクラスから何人も同じ中学校に行ってるじゃないか!」僕は無性に腹が立ってきた。同じクラスから何人も仲間が行っていてどうして彼を守れなかったのか…そんな思いが込み上げてきて、K君の夢や希望が中学へ進学して無惨に打ち砕かれていたことに強い憤りを感じた。そして僕がK君がいじめに悩んでいることを知っていれば、何かできたのではないかと後悔した。僕は、やり場のない怒りに震えながら帰宅したのだった。彼のいじめを苦にした自殺は全く報道されなかった。僕が高校時代の友人に聞かなければそのまま知ることはなかったかも知れない。何事もなかったように月日は流れた。あれから25年、僕はいじめ自殺のニュースに触れてK君のことを思い出した。K君が天窓を見ながら将来の夢を語ったことを…そして、今、あらためて思うのは、K君の他者へのやさしさといじめる者への怒りの欠如である。生きていくには、やさしさだけでなく、時には不正に怒ることも必要なのだと思うのだった。
| 記憶 | 23:59 | comments(2) | trackbacks(0) |
祖父の印刷工場を思い出す
 雨。かかりつけの病院へ行ったら、医師が出かけているというので、戻って来る時間に出直すことにする。2時間ほど時間があるので、喫茶店に入り、グループ展の案内のはがきに宛名書きをする。アドレス帳など持っていなかったので、名刺入れに入っていた数人分の宛名を書いた。これを郵便局に持って行こうと思ったが左足の踝や甲の辺りが痛くて立ち上がるのがつらい。なんとか、立ち上がって郵便局へ出しに行く。途中でかつての取引先の人で写真の趣味もあった人にばったり出会ったので、案内を渡すと、「お前も別の生き方を探しているんだな」と言われる。郵便局で切手を買い、発送する。
それでもまだ時間があったので、パルコの本屋へ行く。隣の展示スペースで昔ながらの印刷の活字などを展示販売していたので、懐かしさに惹かれて入った。
僕の父方の祖父は、印刷工場を経営していた。僕の物心がついた頃には、事業に失敗して、沢山いた従業員も一人ぐらいになっていたと思う。東京の霊岸島というところでビルの地下で細々と印刷工場を営んでいた。今は新川という地名になっているが、その場所がどこかはもうわからない。僕は小さい頃、ここへ行くのが好きだった。地下の工場の隅の方に休めるようにベッドがあって、その明かり取りになっている磨りガラスの天窓の上を夕方になると人々が通り過ぎて行った。そこに写る靴の影や靴音が面白くてベッドに横になって飽きずに見上げていた記憶がある。
工場内は、インクの臭いが立ちこめていて、大きな印刷機が裸電球だけの薄暗い中で動いていた。人の通る最低限のスペースは確保されていたが、とても狭かった印象が残っている。その工場の片隅に細かい活字が並んでいるところがあって、祖父はそれを木の枠に並べたりしていた。パルコの地下の展示はそうした活字や活字の入っている枠などを展示して販売していた。僕は、懐かしいなと思って見ていたが、あの祖父の印刷工場と違うことに気づいた。それは、インクの臭いであった。ここにはインクの臭いがない。今はない祖父の印刷工場を思いながら、僕は、会場を後にして、病院へ行った。医師に診てもらい、処方箋を書いてもらって、薬局で薬を買う。早速、痛み止めと痛風の薬を飲むと、一時間ほどで、足の痛みが引いてきた。足を引きずらなくても歩ける。僕は、山手線に乗って秋葉原に出た。ヨドバシカメラでプリントのアーカイバル用の箱を買うためだ。
グループ展用のプリントを11×14のマットにセットしたので、11×14のサイズのものが入る箱が欲しいと思ったのだ。箱を見つけて購入する。その周囲に暗室関係のものが沢山置いてあったので、見てみる。国産の新品の引き延ばし機で6×7のフイルムまで焼けるものが気になる。値段も手頃であった。ハッセルやマミヤ7を使うなら、引き延ばし機は国産が良いなと思った。僕は、11×14のマットが入る組み立て式の箱の入った大きな袋を持って店を後にした。
雨は降り続いていたが、僕は普通に歩けることで次第に気分が明るくなるのを感じたのであった。
| 記憶 | 23:55 | comments(5) | trackbacks(0) |
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